歌詞の紹介

《恋すてふ》
《恋すてふ》本調子
〽恋すてふ 身は浮き舟の 遣る瀬なき合 波の寄る 寄る漁り火の 燃ゆる 思ひの 苦しさに 消ゆる命と さつさんせ合 世を宇治川の 網代木や 水に堰かれて いるわいな
[第2編16丁ウ]
遊女を「浮き川竹」というように、その頼りない身の上を、本曲では漁り舟にたとえて唄う。恋をしている私は、このはかない命をも恋に燃えられず、さりとて世もすてられず、ただその日その日を、網代木のように流れにまかせているだけの宿命を嘆き、心を痛めている。
波が次々と押し寄せる中で揺れる漁り火のように、燃え上がる恋の気持ちが苦しくて、命が消えそうなくらいに辛い。水に押し流されてせわしなく漂っている・・・
「水にせかれて」の一節は、どうにもならない諦めが、そこはかとなくにじむ。うた澤の節だからこそ、こうした哀調を訴える、しっとりとした雰囲気を醸し出せるのではなかろうか。
「恋すてふ」といえば、百人一首四十一番に収められている平安前期の歌人 壬生忠見(三十六歌仙の一人)「恋すてふ 我が名はまだき 立ちにけり 人しれずこそ 思ひそめしか」を想起した方もいるでしょう。私が「恋をしている」という噂が、こんなにも早く広まってしまった。誰にも知られないようにこっそりと思い始めたのに・・・とある解説では、恋を見抜かれてしまった驚きや恋心に揺れる微妙な心理が、倒置法などさりげない技巧で的確に表現されていると記されています。この歌の背景を踏まえると、うた澤節の歌詞の世界も膨らむのではないでしょうか。
「身は浮き舟のやるせなき」私の心は、漂う舟のように落ち着かなくてどうしようもなく切ない。「波の寄る寄る漁り火の」波が次々と押し寄せる中で灯る漁り火(漁のための灯火。揺れる心の象徴。)のように。「燃ゆる思ひの苦しさに」燃え上がる恋の気持ちが苦しくて。「消ゆる命とさつさんせ」命が消えてしまうかと思うほどの苦しさ。
ところで、この「消ゆる命と さつさんせ」では、いわゆる「一中がかり」にて、浄瑠璃一中節(いっちゅうぶし)の上品で重厚な雰囲気をここに聴くことができます。※一中がかり:「きゆるいのち」までの、歌の旋律と、三味線のチンチンリンドトチンチン。これは清元節《長生》などにも使われていますが、(より古くからある音曲の)一中節によく使われています。
最後に、「世を宇治川の 網代木や 水に堰かれて いるわいな」で、恋愛の行く道の困難さを、水に阻まれて進めない宇治川の景色にたとえて、世の中で自分は、宇治川の網代木(漁のために竹などを編んだザルで氷魚(アユの稚魚)を捕る仕掛けを網代といい、その網代を立てる杭のこと。ここでは、流れに逆らわずに揺れる心の様子を描き、心の揺れ動きを象徴するモチーフとして、自然の景色と感情が巧みに結び付けられています。)のように、水に流されてせわしなく漂っている。
宇治川に行くと、平等院と宇治川の間にある散策道「あじろぎの道」がありまして、秋には紅葉が映える赤い欄干の喜撰橋が望めます。その宇治川の網代木を詠んだ歌では、柿本人麻呂(万葉集の代表的歌人の一人)「もののふの、八十(やそ)宇治川の 網代木に いさよふ波の ゆくへ知らずも」(訳 もののふの多くの人、その氏――宇治川の網代の木に漂いつづける波のように、行く末のわからないことよ。万葉百科参照)が知られています。
全体を通して、恋愛の心情を浮き舟や漁り火、宇治川といった自然の風景で表現し、人の心の中にある恋の苦しみと深さを我々に鮮やかに描き出しているようです。